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三偉人の

初代宗師 長 谷 川 景 光

栄西は平安時代末期(1191)に帰朝し、宋の抹茶法を伝え『喫茶養生記』を著しました。そして16世紀に千利休が出現したことにより、この抹茶法は茶道として確立されますが、それ以前の喫茶法については、あまり知られていないばかりか正しく認識されていないのが実状です。

もとより茶は、中国において煎じて飲む薬とし発祥したと言われ、茶聖とまで言われた唐の陸羽(733~804)が初めて著した茶に関する書『茶経』(760頃)には、中国伝説時代の三帝の一人であり、医師の元祖とまで言われている神農氏に端を発すると書かれています。我が国においても、平安時代以前に茶は薬湯として用いられていただけでなく、宗教、儀式に用いられていました。

儀式の茶である「引茶(ひきちゃ)」が最初に文献に登場するのは、天平元年(729)、聖武天皇により催された「季御読経(きのみどきょう)」において行われた「行茶(ぎょうちゃ)の儀」であることが『公事根源』に記録されています。

さて、当道は三偉人の茶を標榜していますが、その中心人物である嵯峨天皇(延暦5年、786~承和9年、842。第52代天皇。)は、多くの地域に茶の栽培を広め、茶道の基礎を築いた日本の茶文化の最大の功労者であるだけでなく、詩人天皇、雅楽天皇として位置づけられいます。

それまで薬湯であった茶が、嗜好の茶と変化したのは、平安時代初期に活躍した最澄(766/767~822)、空海(774~835)が、嵯峨天皇によって唐に遣わされた後からなのです。最澄は延暦23年(804)、遣唐使に随行して入唐した後、天台山に赴き、修禅寺の道邃、仏隴寺の行満に師事しますが、後者の行満は、仏隴寺智者塔院で茶の儀礼をを司る茶頭(さどう)であり、そこに明白な目的がありました。(徐静波著「中国におけるお茶文化の展開とその日本への初期伝来」引用)

最澄はその翌年帰朝し、嵯峨天皇が所望した喫茶法を伝えただけでなく、同年、比叡山日吉大社に唐より持ち帰ったお茶の種を植えたことが『日吉社神道秘密記』に記されています。

茶と喫茶法を持ち帰ることこそが、嵯峨天皇の命により渡唐した最澄の最大の任務であったことが窺い知れます。また、空海については、『弘法大師年譜』(天保4年、1833)に「大師入唐帰朝の時、茶を携え帰って、嵯峨天皇に献ず」とあります。さらに、空海の漢詩文を集成した『遍照発揮性霊集』の一文「茶湯一碗逍遙にまた足りぬ。…その天稟に任せて昼夜安楽するは、誠に堯日(嵯峨天皇)の力なり。」(弘仁4年、813)という言葉が如実に物語っています。

同じ時期に、嵯峨天皇が空海に贈った詩「海公(空海)と茶を飲みに山に帰るを送る」(漢詩集『経国集』827)があり、また空海は嵯峨天皇から贈られた茶の礼状に「香味ともに美にして、つねに啜りて疾を除く」(『高野雑筆集』)と書かれています。

嵯峨天皇の勅による漢詩集『文華秀麗集』(818)では、「遊覽」の類題で、藤原冬嗣の閑院で催された納涼の茶宴において、嵯峨天皇の皇太弟である大伴親王(後の淳和天皇)が詠まれた詩の一節に「琴を提(さ)げて茗(茶と同義語)を搗(つ)く老梧の間」とあり、遊覧に欠かせない雅楽が演奏される中で茶の宴が盛大に行われた様子を彷彿とします。

嵯峨天皇の御代に存在した嗜好の茶、宴の茶に初めて光を当てた人物、それは小川流煎茶家元である小川後楽氏でした。小川氏は京都造形芸術大学で教鞭を執られていましたが、その著『茶の文化史』(文一総合出版刊)に値遇し、平安時代初期に雅楽と茶の宴が催されていた事実に会暁するのでした。

しかし、小川氏は本書において嵯峨天皇の御代の茶を団茶、即ち陸羽の茶と位置づけました。それは、最澄、空海が入唐した年にこの世を去った陸羽の存在の大きさからではないでしょうか。小川氏の説に疑念を抱いたのは「茗(茶の異名)を搗く」という言葉の解釈からでした。

嵯峨天皇の勅による漢詩集『凌雲集』(814)に収められた、「夏の日に左大将軍藤(原)冬嗣の閑居院」と題された御製の詩の一節に「詩を吟じて厭わず香茗を搗く、興に乗じて偏に宜しく雅弾を聴くべし」とある。ここにおいても雅楽と喫茶が一体となって詠まれているのです。

前掲の大伴親王の詩の一節「琴を提げて茗を搗く」、そして嵯峨天皇の詩の一節「詩を吟じて厭わず香茗を搗く」は共に宴の最中に茗を搗いている様子を表しています。これについて小川氏は、本書の「詩人天皇と喫茶の宴」の章で「茗を搗くというのをどのように解釈すればよいのだろうか。おそらくは茶をかきまわぜることの表現と思われるので、団茶の粉末と考えればよいのであろう。」と書かれているのです。

「搗」の字は、漢和辞典を引くと「砧をうつ。臼をつく」とあり、また陸羽の『茶経』においても「舂(うす)で搗いたり」(後掲)という表現が出てきます、およそ小川氏の「茶をかきまわぜること」と解釈するには余りにも無理があるのです。

確かに陸羽の『茶経』は当時の流行であったと思われますが、広大な国土を有する多民族国家の隅々まで、即ち最澄の修行の地、天台山まで茶の様式が統一されていたとはとても考え難く、また『茶経』にも次のように書かれています。「(新式の団茶は)かくて時を逐うて広まり、やや世俗にしみ込んで、今の唐朝になっては盛んに持て囃されるようになった。国の両都を始め、荊渝地方一帯に掛けて屋並みに飲む。(それ以外の古式の茶は)飲むにも粗製茶、散茶、抹茶、餅茶など種々あって、それ等を切ったり熬ったり煬ったり舂で搗いたり、そうして瓶に貯えておいて湯を注ぎかける。それを淹茶と言う。中には又葱、薑、棗、橘の皮、茱萸、薄荷などを混ぜて煎る仕方もある。充分に沸かしてから、或いは引き上げて滑らかにしたり、或いは煮て沫を取り去ったりもするが、そのようなことは泥溝の棄て水同様のものに過ぎない。それなのに世俗の風習として、一向にそれを止めようとはしない。」

すなわち新式の団茶は、西安、洛陽、荊、渝といった都市部で流行していたことが明確に記されており、この四地域から遙か東方に位置する天台山では古式の茶が営まれていたとことが、この一文に明確に示されているのです。文末の「それなのに世俗の風習として、一向にそれを止めようとはしない。」という嘆きの言葉に同定されるのです。

さらに、『茶経』に書かれた団茶における前述の「茗を搗く」という行為がどのようなものかというと、採取した茶葉を釜の中で蒸籠で蒸し、冷めない内に臼で搗くという初段階の製造工程に位置づけられています。そして搗き上がったら型枠に入れて干し、乾いたら串に通して焙り、これを容器に貯えて団茶、即ち保存用の固形茶が完成するのです。

この団茶を飲むには再度焙り、紙袋に入れて冷ました後、薬研を転がして挽き、さらに羅(ふるい)に掛けたもの盒(ふたもの)に納めます。次に釜で湯を沸かしこれを投じて煮込み、浮き上がってくる粉末と湯を碗に酌んで飲むという非常に手間のかかる形式です。

したがって、藤原冬嗣の閑院での茶宴の最中に茗を搗き、団茶を作る一連の製造過程を経て団茶を飲んだなどということがあり得ないことは、火を見るより明らかなのではないでしょうか。

陸羽は「それ等を切ったり熬ったり煬ったり舂で搗いたり、そうして瓶に貯えておいて湯を注ぎかける。それを淹茶と言う」とし、新式の製造方法と道具を用いる団茶に比べて、淹茶を蔑むように古風な茶と位置づけています。

しかし、古風であるが故に宴の最中に「茗を搗く」ことは理に適っており、嵯峨天皇の御代の喫茶法は最澄が天台山から伝えた淹茶であったことに疑いの余地はないと言えます。

残念ながら、小川氏だけでなく、陸羽の『茶経』の貴重な記載を無視して、嵯峨天皇の御代の喫茶法を団茶、餅茶であるとする見解が散見されます。そこで、敢えて前述を要約し、淹茶である論拠を重ねて示します。

一 嵯峨天皇の御代の喫茶法は、最澄が仏隴寺智者塔院の茶頭である行満に師事し、もたらされたものである。
二 唐代に隆盛した陸羽の喫茶法は、中国都市部の王侯貴族に限定され、『茶経』に書かれているように、都市部から遠く離れた山寺などでは、古式の喫茶法である淹茶が嗜まれていた。
三 「茗を搗く」行為は、『茶経』に書かれているように、団茶(餅茶)では製造過程で行われるものであり、宴の最中に行われるようなものではない。

同じく『茶経』に書かれている「それ等(茶、茗)を切ったり熬ったり煬ったり舂で搗いたり、そうして瓶に貯えておいて湯を注ぎかける。それを淹茶と言う」ところの、湯を注ぐ前の行為である。 

淹茶の蓋然性を中心に記述しましたが、最後に点前(当道における「振舞(ふるまい)」)について述べることにします。わが国の茶道史において、最古の点前の記述として斯界の常識となっているのが弘仁6年(815)4月22日の「永忠奉御(ようちゅうほうぎょ)」です。永忠(743~816)は、奈良時代末期に渡唐し、平安時代初期に活躍した三論宗の僧侶です。そして、奉御とは「ささげすすめる」(『大字源』角川書店刊引用)を意味します。この史実が記されているのは、平安時代初期の勅撰史書『日本後記』の以下の箇所です。

「廿二日、近江国滋賀韓崎に幸す。便ち崇福寺を過ぐ。大僧都永忠、護命法師等、衆僧を率い、門外に迎え奉る。皇帝輿を降り、堂に上り、仏を礼す。更に梵釈寺を過ぐ。輿を停めて詩を賦す。皇太弟および群臣、和し奉るもの衆し。大僧都永忠、手自ら茶を煎じて奉御す。御被を施さる。即ち船に御し湖に泛ぶ。国司、風俗歌舞を奏し、五位巳上ならびに掾以下に衣被を賜う。史生以下郡司以上、綿を賜うこと差あり。」

すなわち、皇帝とは嵯峨天皇のことであり、永忠が「手自(てずか)ら茶を煎じて」という記載から、客人(まろうど)である嵯峨天皇の御前で、饗応(あるじ)として永忠が点前を披露し茶を煎じて献上したことが分かるのです。このように、平安時代初期には既に茶道の根幹を為す点前の形式が存在していたということなのです。

出典

wikipedia

[1]Emperor Saga large

パブリック・ドメイン File:最澄像 一乗寺蔵 平安時代.jpg 作成: 14世紀

[2]最澄像 平安時代 一乗寺所蔵の国宝天台高僧像10幅のうちのひとつ

パブリック・ドメイン File:Emperor Saga large.jpg 作成: 平安時代(794年-1185年)

[3]絹本著色弘法大師像

パブリック・ドメイン File:Kobo Daishi(Taisanji Matsuyama).jpg 作成: 鎌倉時代(1185年-1333年)

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空海[3]

くうかい、774年〈宝亀5年〉- 835年4月22日〈承和2年3月21日〉

弘法大師(こうぼうだいし)の諡号で知られる真言宗の開祖。俗名は佐伯眞魚(さえきのまお)。

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最澄[2]

さいちょう、766/767年 - 822年

伝教大師の諡号でとして広く知られる日本天台宗の開祖。

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嵯峨天皇[1]

さがてんのう、786年10月3日〈延暦5年9月7日〉- 842年8月24日〈承和9年7月15日〉

日本の第52代天皇(在位は809年5月18日〈大同4年4月1日〉- 823年5月29日〈弘仁14年4月16日〉)。

諱は神野(賀美能・かみの)。